Mostal観光が終わって、Dubrovnikへ戻るところ。正直言って、Mostalに行くのは、ちょっと怖い気もした。レンタカーをやめて、ツアーにしたのもそうした理由から。
今日一日を振り返ってみることにする。
日本に生まれ暮らしていると戦争とはあまりにも無縁のため、ちょっと前まで戦争をやっていたということが想像できなかった。DubrovnikやZagreb(まだ空港だけだど)は、のんびりとしていて、内戦の面影をしのばせるものはなかった。
でも、民間人が乗ったバスの誤爆など、ユーゴ内戦でも壮絶を極めたBosniaは、果たしてどうなっているのだろうか。想像できないと書きつつも、想像している以上に怖いものを見てしまったらどうしよう…。そんな気持ち。
DubrovnikからMostalへは、3つ*の国境検問所を通る。検問所の近くの道には、花が手向けられていたり、若い兵士のポートレートを掘り込んだ石碑が建てられていたりいる。つまり、それは、そこで誰かが内戦でなくなっていることを示している。
* Dubrovnikは飛び地のため。
最後の国境を超えてにBosniaに入ってMostalに近かづくと、バスはネトルヴァ川沿いを進んでいった。そして、山手にぽつぽつとモスクを見かけるようになると、道筋に集団墓地を目にするようになる、
小学校のグランウンドぐらいはあるだろうか。あるものは十字架で埋め作られていて、あるものは三日月に星が刻まれている。それにしても数が多すぎる。最初、サッカーなどの運動場に似ているなあと思って、はっとした。たぶん、前は運動場だったのだ。たぶん。墓地だけでは収容しきれず、多くの運動場が急ごしらえの墓地に変わったと、何かで読んだことを思い出した。
Mostalに到着して、キリスト教の教会脇のパーキングに停車。脇には7階建てくらいのアパートが何棟か立っている。なんと、最上階まで壁一面に小さな穴が虫食いのごとく空いている。最初、何の穴かわからなかった。それが、機関銃によるものだと気がついて、背筋が凍った。
教会と道を挟んでユダヤの星がついた柵に囲まれた空き地が見えた。立て札によるとそこはかつてシナゴーグだったところで、焼き討ちされたままになっている。
ウォーキングガイドの最中にガイドの説明に飽きて、山肌を見て更にびっくり。中腹一面が墓標で覆われている。
(追記)
この後、持っていったPCが壊れてしまって、モスタルのかなりの写真が駄目になった。でも、よかったのかもしれない。弾跡の写真など公開するもんじゃないという戒めかもしれない。